グランドセイコー60th記念モデルについて

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GS HPより出典

さて、時計愛好家として新しいGSの製品群に対する評価は義務感のように感じたので、後発ではあるが書き残したい。

今回リリースされた中で、特に注目されたグランドセイコー60th記念SLGH002は愛好家を魅了したプロダクトだろう。何と言っても新開発ムーブであるcal.9SA5については議論の価値があると感じた次第である。

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GS HPより出典

全貌が明かされた今作の9SA5ムーブメントは現代的にブラッシュアップされたアピアランスをもつ。以前までの9S65系とは異なり、主輪列と自動巻機構をすべて同一レイヤーに収めることで薄型化を果たし、結果として審美性も格段良質なものになった。バランスコックや主輪列を覆うブリッジを両持ちで固定する設計は、ROLEXの32系やJLCの975を思わせる現代的なアプローチである。ブリッジの形状は稜線が多用されており、以前までのマスプロらしい直線的な形状から脱したことは称賛すべきであるが、旧来にあったGSの面影はまるで無い。ただ、セイコーのマイクロアーティスト工房手掛ける叡智やソヌリなどでは以前から面取りを際立たせるアプローチはあった為、これの延長のようにも思える。全体像としては各ブリッジ形状に統一感が感じられ非常にまとまり良く思えるが、特段惹かれるものではないのが個人的な印象である。

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GS HPより出典

さて、今回最も語られるべきはセイコー独自開発の脱進機である《デュアルインパルス脱進機》だろう。まず、デュアルインパルス脱進機であるが、直訳すると《2系統の衝撃》である。これはテンプ振動に要するトルクを2系統から伝達していることが所以である。通常のスイスレバー脱進機ではトルクの伝達がガンギからアンクルレバーを介してテンプに入力される間接衝撃(インダイレクト)である。対して、ダイレクトインパルス脱進機ではテンプ振り座に取り付けられた振り石でガンギからの衝撃を直接受ける。要約すると、インダイレクトでは〔ガンギ車→アルクルレバー→テンプ〕の伝達であるのに対し、ダイレクトでは〔ガンギ車→テンプ〕となる。テンプ振り座に取り付けられた2種類の振り石が、それぞれダイレクト用とインダイレクト用を担っている。これら2系統から伝達を受ける構造がデュアルインパルス脱進機である。ダイレクトインパルスのメリットとして、ガンギの回転トルクが直接伝達されるため、トルクロスが非常に少ない。このとき、ガンギと振り石の接触角度をは90°に調整されていることが理想的である。

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Gardner D. Hiscox より出典

アンクルの形状から、この脱進機はロビン脱進機からインスパイアされたものだと考えられる。ロビン脱進機はデテント脱進機の改良型である。止め石を1つしか持たないデテントはレバーをパッシングスプリングのみで保持しているため、外乱によりロックレバー(アンクル止め石)が解除されてしまう欠点を持つ。これに対し、ロビンでは止め石を2つ設けることで確実にガンギをロックするセーフティメカニズムを備える。言うなれば、ロビンはデテントとスイスレバーの複合である。

デテントのメリットとしてはテンプの拘束角が小さいことである。拘束角とはテンプに取り付けられた振り石がアンクルに接触してから蹴り切るまでの角度である。当然、拘束角は小さければ小さいほど摩擦損失が少なく、それだけテンプの自由振動を保持することができる。スイスレバーの拘束角が50°程であるのに対して、デテントは10°程であるため、その差は歴然である。また、アンクルの止め石とガンギの接触面が小さく、接触角も90°と垂直であるため摩擦抵抗が少ない。対して、デメリットは前述したとおり、外乱によってアンクルのロックレバーが解除されガンギが誤作動を起こすことだ。そのため、デテントは歴史的にみてもマリンクロノメーターなどの平置き時計に使用されているものが多い。スイスレバー脱進機のメリット・デメリットはデテントのほぼ相反である。そのため、ロビンに関してはこれらの中間に位置するものと考えて間違いではないだろう。

ただし、クロノスの記事に記されてあったソースによるとセイコー独自脱進機の拘束角はスイスレバーと同様であるとの事、これに関しては疑問に残る点であるが設計上の障害があったのだろう。対して、セイコーのアプローチとしてはMEMS成形で中抜きされたガンギとアンクルである。軽量化が図られているためトルクロスは抑えられているだろうし、この脱進機が10振動で駆動できる所為もここにあるだろう。

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GS HPより出典

長々と脱進機について書き連ねてしまったため、その他の要点を簡潔に挙げていく。先ずはセイコー初のフリースプラングが実現された点である。テンワの外輪に収まるよう配置されたミーンタイムスクリューは空気抵抗による配慮である。ミーンタイムスクリューの固定部にはスリットが入っており、ここをかしめることで緩み止めの役割を果たす。ひげゼンマイは自社で8万通りのシミュレーションから導き出された、俗に言うブレゲ巻き上げひげ。これによりテンプは同心円状の正確な振動を傍受する。テンプを支えるバランスブリッジには縦アガキを調整するナットが両端に取り付けられている。これはロレックスのキャリバーにも備わっている仕様である。80hロングパワーリザーブはツインバレルによるもの。マルチバレルはリザーブを伸ばす要因もあるが、今作においては独自脱進機の等時性を保つためのトルク増幅と安定性を狙ったものだと考える。

これらメカニズムを収めたムーブメントはとても明快なホイールトレインである。ツインバレルが大半のスペースを占めているが、主輪列をコンパクトに収めることで上手く集約させた印象である。オフセット輪列であることは止むを得ずであるが、やはり針飛びは懸念される。GSであるからには、ここは確実に詰めて欲しいところ。しかし、自動巻かつツインバレルを同一レイヤーに収めた9SA5の基本輪列は理想的であり、今後の基幹キャリバーにこれの基本設計を転用できればベストである。時代の潮流に取り残された旧来の9Sメカニカルキャリバーであったが、今作の発表に伴い今後の道筋が明らかになった、そんなところである。

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