【記録版】カリ・ヴティライネン氏 × 広田氏 〜ワールドウォッチフェア2019〜

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三越ワールドウォッチフェアにて広田氏とカリ・ヴティライネン氏のトークショー

三越ワールドウォッチフェアにて8/24(土)に独立時計師のカリ・ヴティライネン氏とクロノス編集長広田氏の講演が行われた。

今回は、講演の内容を記録として記事に残したい。

カリ・ヴティライネン師はフィンランド出身。現在は独立時計師でありアカデミー会員。1989年にスイス時計学校(WOSTEP)を修了後、パルミジャーニの工房で時計製造に携わった。その後、ブランドを独立、現在は自身の名を冠したヴティライネンで時計製造を行なっている。

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今回紹介されたVingt-8(ヴァントゥイット)

ヴティライネンHPより引用

H:ブランドの独立が当時40歳。独立時計師としては年齢が高かったですが、不安はなかったんですか?

V:パルミジャーニでの経験はありますが、同時にWASTEP(時計学校)の教員もやっています。なので、若い学生にも自分の技術を継承し手助けを行いたいと思いました。独立には資金が必要です。また、ブランドを立ち上げた後に継続して経営していけるかという不安もありました。パルミジャーニで働いていた時から、近郊の時計産業も栄えており、下請けとしてコンプリケーションを製作してきた信頼はありました。私にとって40歳が資金的にも経営的にもやっていけると自信になったタイミングでした。

H:ムーブメントの仕上げについてお聞きしたいです。現行の三針時計でこれ以上の仕上げを誇る時計は無いと思います。なぜ、これ程までに仕上げにこだわるのですか?

V:高級時計は、ラグジュアリー時計ブランドのハイエンドラインが代表的ですが、ハイエンドの中でも量産品のハイエンドというものがあります。つまり、高額だからいい時計ということではなく、実際に時計を見たときに美しくトキメキがあるかを大切にしています。我々は生産本数を抑えており、大量生産を目指しているわけではありません。こうすることで、地板や歯車などの様々なパーツ1つ1つに至るまで仕上げを施しています。これが私にとっての本格的な高級時計でありハイエンドだと思っています。

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Vingt-8に搭載されたムーブメント。美しい面取りとガンギ車を二つ配したダイレクトインパルス脱進機が見える。

インターネットより引用

H:氏の時計のムーブメントには、いくつかの顕著な特徴が見られます。その1つが面取りです。ムーブメントの面取りは完全に手作業で綺麗に丸みが保たれており、面取り幅が非常に広いです。通常ですと、面取り箇所をダイヤモンドカッターで45°にカットします。手作業での面取りはその後に行われ、面取り幅も狭いです。氏の時計ムーブメントほどの仕上げは他には見られないですが、どのようにして面取りを行なっているのですか。

V:面取りと言ってもその作業は多岐に渡ります。まず、フォルムを作るためにレイアウトを始めます。その後に砥石を使用して、全体の形を整形します。そして、目の違うエメリーペーパーを使用して研磨面を整えます。その後、最終工程としてポリッシングを行います。ポリッシングの工程も伝統的なウッドスティックに研磨剤を付け、一つ一つ手作業で研磨を行います。そのため、受けはCNCでの切削はなくすべてが手作業で行われます。受けの面取り部をCNCで45°で切削してしまうと、素材を切り落とすわけですから必要な箇所まで切削してしまう可能性があります。湾曲した美しい面取りを保つ為には、手作業が不可欠になります。

H:ヴティライネンさんの仕上げは面取りに関しても下地処理を行わない伝統的な時計づくりを行なっています。もう一つの魅力は、穴石の形がとても綺麗です。穴石の形状はドーナツ状で立体的な曲線が描かれています。また、歯車の軸の抵抗を軽減するための処理も行われています。安い穴石ですと、形状は平面的で中央が窪んでいる程度です。これほど程度のいい穴石をどこから供給しているのですか。

V:穴石というのは、歯車を受ける箇所です。歯車は常に動いていますから、そこに潤滑油を必要とします。ドーム型の穴石は見た目も美しいですし、穴石の内側もドーム型に成形されているため、潤滑油の保持にも優れています。スイスにも穴石の専門メーカーはありますが、この形状の穴石を量産しているメーカーはなかなかありません。あるとすれば、昔製造した在庫からということになります。しかし、古い在庫ですとクオリティーの問題もありますから、一つ一ついい状態のものか確認しています。

H:フィリップデュフォー氏もいい形状の穴石を入手するのは難しいと言っていました。しかし、クオリティーの良い時計を作るためには立体的な穴石が重要ということですね。

V:技術的な話になりますが、この時計に使用している脱進機とは通常(スイスレバー)とは違います。ダイレクトインパルス脱進機というものを採用しており、ガンギ車を2つ配置しております。この機構に要するアンクル受け石の形状は特別なものになります。この受け石を入手するために、スイスや日本の受け石メーカーに問い合わせをしましたが、特注でさらには少ロットで製造するメーカーはありませんでした。そのため、我々はオールドエボーシュの脱進機の受け石のみを取り出し、一つ一つ形状に合わせて削り出し・調整を行なっています。

H:この脱進機についてお聞きしたいです。この時計に搭載されているムーブメントの脱進機はスイスレバーではなく、ブレゲが開発したナチュラル脱進機を改良したダイレクトインパルス脱進機を搭載しています。メリットはスイスレバー脱進機に比べ油切れが理論上なく、デテント脱進機に比べて振り角が高いため、携帯精度がいいです。しかし、ブレゲナチュラル脱進機の開発には失敗していますね。ダイレクトインパルス脱進機の採用はジュルヌ氏やローランフェリエ氏もしていますが、ヴティライネンさんはなぜこの機構の採用に踏み切ったのですか。

V:まず、なぜスイスレバー脱進機ではなくダイレクトインパルス脱進機を採用したかというと、メリットがあるためです。一つはスイスレバー脱進機に比べ衝撃面を最小限に抑え、摩擦の影響が抑えられます。これによって、パワーリザーブを30%〜40%ほど伸ばすことが可能になりました。もう一つは、我々の工房でこれらの機構のパーツから生産を行うことができる体制が整っていたため、またデザイン的にも特徴があるため、採用に踏み切りました。

H:素朴な疑問なのですが、ブレゲを初めとするその他メーカーのナチュラル脱進機は正確に動かなかった。しかし、ヴティライネン氏のものは正確に動く。この差は何なのでしょう。

V:ナチュラル脱進機がもともと開発されたのは200年前のことでした。しかし、その時代ではパーツをミクロン単位で製造するほどの制作精度はありませんでした。脱進機というのは時計の中で最も緻密な機構となるため、正確にパーツを調整しなければ精度に影響が出てしまいます。現代では、コンピュータで正確にパーツを製造することもできますし、パーツが噛み合うあそびを最小限に抑えることで、より高い精度を出すことができます。

H:個人的には、ナチュラル脱進機に対して懐疑派ではありましたが、ヴティライネン氏の時計はしっかりと動きます。これに伴う脱進機の受け石は既存の受け石を自社で加工・調整しているということですね。

V:脱進機の爪石というのは精密に製造しなければなりません。爪石の当たる衝撃面を計算で導き、最も効率的に衝撃を緩和出来る角度を保たなければなりません。そのため、我々は爪石を自社で加工・調整を行なっております。

H:ヴティライネン氏はWOSTEPの教員をやっている理論派ですので、脱進機の計算もできるということですね。

V:教員をやっていた時期もありましたが、理論上と実際のムーブメントを動かすというのは別次元でした。もちろん、情報として多くを経験してきましたが、実際に設計を行い稼働させるまでは努力が必要でした。そして、分析する能力も必要です。

H:ヴティライネン氏はムーブメントの仕上げやダイレクトインパルス脱進機など面白い機構を採用しています。補足すると、歯車は真鍮でなく金でできています。【コンブレマイン】という文字盤製造会社を傘下に持ったため、ケースや文字盤に関しても、現在は自社で製造を行なっています。自社で文字盤メーカーを傘下に持ったのはなぜですか。

V:年間で50本しか製造しておりませんので、自社の文字盤を独自のデザインで少ロットでサプライヤーから調達することは困難でした。そこで、我々がデザインした文字盤を実現させるためには、自社で製造するしかありませんでした。自社で製造することにより、品質も自社で管理することができます。

H:ヴァントゥイットに搭載されている文字盤はギョーシェですが、これは手作業によるギョーシェですか。下地をCNCでカットする工程などは行わないのですか。

V:文字盤のマテリアルはゴールドですが、厚さ0.8mmです。ここに文字盤を固定するための足を付けます。その後、アプライドの足を留めるための穴をあけます。すべての下工程を終えた文字盤に、ギョーシェ彫りを行う古い機械を使用します。そのため、CNC等で文字盤の下地処理を施すことはありません。

H:この文字盤の製作はどれくらいかかるんですか。

V:ヴァントゥイットに使用されている文字盤は4日間かかります。さらに、伝統的な機械を使用してギョーシェ彫りを行いますから、25年以上の経験がある専属彫り師2名に任せています。

H:ヴティライネン氏の面白いところは時計がどんどんグレードアップしていくところですね。例えば、ギョーシェ彫りの上にエナメルを施す文字盤があります。その後、エナメル文字盤にアプライドインデックスを配している文字盤もあります。エナメルに対してアプライドインデックスを配する文字盤は現代では皆無ですよね。このような事をすると文字盤が壊れるでしょうが、なぜこういった手法を行なったのですか。

V:私にとって文字盤というのは時計を見た時に一番目に触れる時計の顔とも言えます。特徴というのは受注する際に文字盤をオーダーすることができます。エナメルに関しては豊富なカラーを用意していますし、仕上げもギョーシェやガルバニックにすることや、アプライドのインデックスを配することもでき、皆さんのご要望に応えられる体制を整えています。これは、我々の工房にそれだけの職人がいるということ、そしてチャレンジすることによって技術力を向上させたいと考えています。

H:最後にヴティライネン氏にお聞きしたいです。いろんな時計を拝見させていただくのですが、ムーブメントの出来は素晴らしい。ですが、時計としての出来とは別だと思っています。いいムーブメントを作ることが、いい時計を作るということに直結するわけでは無いと思っていますし、折に触れて時計氏の方にもお話しし、記事にも書いています。ヴティライネン氏にとっていい時計を作るために必要な条件とは、なんだと思いますか。

V:私にとって美しい時計というのはムーブメントだけではありません。例え話になりますが、車も同じく精密機械になります。車の中でもスポーツカーになりますと、手作業でつくる物もありますし、命がかかっている乗り物ですから確実にブレーキがかかるといった技術的な面が重要であります。時計は精密でなければならなく、精度も確実でなければならない。これは基本ですので守っていかなければならない。ただし、他とは違い、ただ精度だけが高いだけでは時計というのは美しく無いわけです。腕につけている時、目につくのは精度ではなく時計の顔だと思います。つけた時に美しく、飽きがこないデザイン、またリストウォッチですからつけ心地も重要としています。時計を装着した際、ストラップやバックルが湿気により違和感がないか、時計の重量や重心が保たれており心地よいか、また時計の視認性、これら全てのパッケージングが優れているものこそ美しい時計だと思っております。また、完成品をお客様に時計を納品する際のケースパッケージにも非常にこだわっています。一言に美しい時計というのは、単純に見た目だけではなく、総合的なパッケージングが優れている時計こそが美しい時計だと思っています。

H:ヴティライネン氏の時計はムーブメントが注目されがちですが、より一層注目すべきは時計としてのパッケージングであり、古典的な技術をベースの上に成り立っているという点が素晴らしいです。なので、ヴティライネン氏のつくる時計は間違いなく工芸品であり、優れたパッケージングを持つ時計であると言えます。

V:時計というのは私1人で年間50本製造できるわけではありません。私の工房には現在24名の技術者がいます。全員が「素晴らしい時計を作ろう」という一致した目標を持っており、私自身も彼らがいなければ時計製造はできません。彼らをリスペクトしていくことが時計に現れているのだと思います。